R4.11.26(土)に、街歩き企画「第2回戦国ゆかりの地巡り~家康と一言坂の戦い~」が総勢21名1で無事開催されました!
なんと今回の参加者はお子様連れの方が多く、6名の小学生も参加して下さいました。
集合場所は、東海道の要所である磐田市見付の街道沿い「旧見付学校」。
こちらの学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎で、国の史跡にも指定されています。
そしてなんと、「武田信玄、進攻す 一言坂の戦い」の著者、磐田市の郷土史研究家である岡部英一先生も応援に駆けつけて下さいました!(画像引用:岡部英一先生 ブログ)
岡部先生、お忙しい中ありがとうございました!
続々と参加者の皆様がお集まりになる中、一際目立つ甲冑(かっちゅう)姿の小学生が登場!
なんとこの男の子、本多忠勝を愛するあまりに本物の甲冑師、忠勝を模したMy甲冑を作成されたとのこと!
あまりのクオリティの高さに岡部先生も感嘆。
岡部先生のファンとのことで、見付学校に隣接する忠勝ゆかりの神社「淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)」前にて記念撮影を行いました。
2グループに分かれ、いざ「一言坂の戦い」跡地へ出発!
見付の街道の逸話や、旧姫街道のお話を伺いながら歩を進めます。
普段は歩かないような坂道に大人たちが息を上げる中、観光ボランティアさんや小学生たちはなんのその!
すいすいと登っていきます。
所々で披露して頂くお話の際に小休憩を挟みつつ、無事「一言坂の戦い」跡地に到着しました。(写真はBチーム)
この戦いでは、家康敗走の時間を稼ぐために猛将本田忠勝が隊の殿(しんがり)を務めたことでも有名で、
「蜻蛉切り(とんぼきり)」という大槍で一人奮戦、味方を助けたと伝わっています。
【一言坂の戦いって?】
1572(元亀3)年。
浜松城へ退却する途中、徳川軍は一言坂で武田軍に追いつかれました。
その際に家臣、本多忠勝(通称・平八郎)の必死の防戦により、徳川軍は味方を一騎も欠けることなく脱出に成功しました。
敵である武田軍に「家康に過ぎたるものが二つあり、唐(から)の頭に本多平八」と言わしめました。
引用:「磐田市観光協会 公式HPより抜粋」
今回の街歩きでボランティアさんとコースを考案する中で重要視したのが、「なるべく家康たちが実際に敗走したコースを歩きたい!」というものでした。
実は、企画時の下見の際に、街中に歴史を伝える看板等が極端に少ないと感じたスタッフ。
「自分たちが日常的に歩いている道を、あの徳川家康が、本田忠勝が実際に歩いたんだ!」ということをもっと伝えたいと思い、今回のコースを選定しました。
道中、参加者の皆様からも
「この道を実際に敗走したんですか?」
「どんな戦いだったんですか?」
と様々な質問が飛び交いました。
ゆったりとした坂である一言坂を下り、田んぼ道を進んでいくと現れるのが、「智恩斎(ちおんさい)」。
実はここには、一生に一度、一言だけ叶えてくれるという観音様が祀られています。
徳川家康も敗走の途中にこの観音様に「助けてくれ」と頼んだところ、戦運が有利になったとされています。
※元は姫街道沿いの台地にあったが、今は智恩斎(ちおんさい)前に移されているようです。
今回の街歩きの折り返し地点となるここ智恩斎にて、皆さん思い思いのお願いごとをしました。
帰路では、本田忠勝が兜を木の枝にかけて休憩したとされる「かぶと塚公園」。
徳川家康が中泉村に築かせた「中泉御殿門」のある「東福山 西光寺」。
を巡りつつ、見付学校まで戻ってきました。
見付学校では、校内に保管されている伝説の「酒井之太鼓」を拝見させて頂きました。
なんとこの太鼓、あの徳川四天王「酒井忠次」が、元亀3年に浜松城にて武田軍を追い払うために打ち鳴らしたとされる本物の大太鼓!
長い歴史の中、浜松城→浜松板屋町→見付宿へと移され、その後、見付学校の新築落成式の際に寄贈されたとのこと。
その荘厳な佇まいに、今回の街歩きの終着点にふさわしい「歴史をつなぐことの大切さ」を感じました。
ご参加頂いた皆様、磐田観光ボランティアの皆様、岡部英一先生。
本当にありがとうございました!
次回の街歩きをお楽しみに!
コメントをお書きください