宮竹町
由来・歴史について
宮竹町は、車の販売店が多いことでも知られています。区内有数の幹線道路「柳通り」「自動車街通り」が町内を横断しており、通り沿いには多くの自動車販売店が軒を連ねています。また、南西部には浜松スポーツセンターが存在し、市内の住民の多くが利用しています。
では、昔の宮竹町は一体どんな様子だったのでしょうか?
町の由来
竹林が一帯に広がっていたことから、その名が付けられたと言われています。そのほか、蒲神明宮の新領地であった同町内に神明宮の屯倉(食糧庫)が存在したことに起因するという説もあります。
町の歴史
奈良時代~鎌倉時代
宮竹野際遺跡
奈良~平安時代 川からは奈良~平安時代の役人が使用した硯や墨書土器が発掘されたようです。
鎌倉時代 鎌倉時代の井戸などの遺構も検出され、長上郡役所の関連施設跡とも言われているようです。
2010年頃発掘調査がされ、現在は埋め戻されていてその跡は見ることが叶いません。
江戸時代
現在は、多くの自動車販売店がしのぎを削る自動車街ですが、現在の様子とはかけ離れていました。
江戸時代には、宮竹村、宮竹新屋町に分かれていました。
当時の記録が書き記された「東海道宿村大概帳」には、
「家居少し、多分並木にて、裏は田畑なり」と書かれているそうです。
つまり、江戸時代までは住民も少ない寂れた村だったことが想像できます。
また、明治時代の町内人口が21戸、127人であることからもその様子がうかがえます。
昭和時代
昭和30年代に経済成長が始まると、浜松市街は多くのトラックやバス、自動車で大渋滞が発生するようになりました。旧東海道(子安町~中野町)は車のすれ違いが困難なほどの狭さだったため、建設省によって工事が開始。
昭和34年には新国道が開通したほか、笠井街道(子安町から宮竹まで)の拡幅、宮竹町から篠ケ瀬町までの直線道路が整備されるなど、宮竹町は自動車街として第一歩を踏み出しました。そして、数度の経済成長を経て、現在の宮竹町が出来上がりました。
まとめ
自動車街として発展する転機の一つとなったのは、戦後の道路拡張でした。
その経緯を知ることで、町の見方も少し変わった気がします。
また、どんな名字が多いのか 調べてみると、
宮竹町には「伊藤姓」が多いことが分かりました。
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作成者:木村一正
【参考文献】
浜松市立蒲公民館刊『袖柴ケ森』
『浜松市史』
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